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笹子トンネル(ささごトンネル)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線笹子駅 - 甲斐大和駅(トンネル建設時の名称は「初鹿野駅」)間にある、全長4,656 mの単線鉄道トンネルである〔。1903年(明治36年)2月1日に開通した当時の正式名称は笹子隧道(ささごずいどう)であった。1966年(昭和41年)12月12日に新笹子トンネル(しんささごトンネル、全長4,670 m)が開通し、笹子トンネルを下り線、新笹子トンネルを上り線として複線で運用されるようになった〔〔。 == 建設の背景 == 明治初期に東京と京都を結ぶ鉄道を計画するにあたり、東海道経由と中山道経由を比較し、海岸沿いは船の便があって競合するのに対し、内陸は交通が不便であり鉄道が地域の発展に資することができる、との理由で1883年(明治16年)に中山道経由が決定された〔。これにより長野県の諏訪湖周辺の生糸生産地帯にも鉄道が通る予定となり、地元からは期待が持たれていた〔。しかし実際にこの経路に着工してみると、峻険な山岳地帯を建設するのには膨大な費用が掛かることが判明し、1886年(明治19年)に東西を結ぶ鉄道は東海道経由に変更されて、中山道経由の鉄道は実現しなかった〔。このため諏訪湖周辺では別途鉄道を実現したいとの希望が高まっていた〔。 こうした地元の生糸関連業者に東京や横浜の大資本家が加わって1887年(明治20年)に計画されたのが、静岡県の御殿場から甲府を経て松本へ至る甲信鉄道であった。当時新進の技術者佐分利一嗣を雇って調査した甲府から御殿場へ至る経路は、甲府から市川大門付近まで南下しそこから芦川に沿って東進し、ケーブルで車両を牽引するインクラインを設置して精進湖へ出て、籠坂峠を越えて御殿場に至るものであった。しかしこれは鉄道局から技術的に困難であるとされて、甲府 - 松本間のみが免許されることになり、さらに再検討を行っているうちに国有鉄道による中央本線計画が開始されたこともあり、計画を放棄して1893年(明治26年)に免許状返納を命じられた〔〔。 また甲州街道に沿って東京と直結する鉄道を主張する一派もあり、雨宮敬次郎らは八王子 - 甲府間を結ぶ山梨鉄道を1889年(明治22年)に出願した。これは甲信鉄道の計画では甲府盆地東部に益がないことを考慮してのものであった。しかし、先願の甲信鉄道が御殿場起点を八王子起点に改める可能性があるとしてこの計画は却下された〔〔。この計画は後の中央本線にほぼ沿うものとなっており、笹子峠を越える予定とされていた。最急勾配は22.7パーミルでトンネルの長さは約2 kmとされていたが、これが本当に可能であったかは疑問視されている〔。 一方、西南戦争に伴う軍事輸送などで鉄道の威力を認識した当時の陸軍は、1887年(明治20年)に当時の参謀本部長有栖川宮熾仁親王からの建議案において、海岸近くに敷設する鉄道は海上の敵からの攻撃を受けて破壊されやすく防備上不利であり、内陸を貫通する鉄道が必要であると主張した〔。こうしたこともあり鉄道局長官井上勝も、1891年(明治24年)の「鉄道建設ニ関スル議」という建白書で、山梨・長野の物産の輸送に資して経済的にも利点があることに軍事上の利点を加えて、東京と名古屋を結ぶ鉄道の建設を直ちに着工する必要があると指摘した〔。こうして1892年(明治25年)6月に鉄道敷設法が帝国議会で成立し、その筆頭に「神奈川県下八王子〔1893年に多摩地域が東京府に編入されるまで、八王子は神奈川県に属していた。〕若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道」が挙げられた〔。その後比較路線の検討が行われ、八王子を起点とする経路が1894年(明治27年)の第6回帝国議会において承認を受けた〔。 笹子峠周辺の経路についても複数案が検討されていた。笹子からそのまま西進して摺針峠(原文では摺張山脈と記載)を越えて黒駒、石和を通るものがあり、全長14マイルにおよぶアプト式のラック鉄道が必要とされた。また大月から南下して吉田を経て河口湖へ出て、御坂峠(八町峠)を越えて藤の木、黒駒、石和と通る経路もあったが、距離が伸びて建設費も増加するため採用されなかった〔。こうして笹子峠を通過するルートが採用されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笹子トンネル (中央本線)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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